ピアノと私
ブログ生活145日目
私は小学校1年生から5年生までカワイピアノ教室でピアノを習っていた。
姉が習っていたのでそれを見て小学校に上がった頃「私も習いたい」とでも言ったのだろう。
きっかけはともかく私は毎週金曜日にキティちゃんの手提げに「子供のバイエル」という赤いピアノ教本を入れて、20分くらいの道のりをてくてく歩いて通っていた。
1~2年生の頃は楽しく通っていたのだが、3~4年生の頃は嫌々やっていたのを今でも良く覚えている。
楽譜が難しくなり上手く弾けないことが増えてきて、家での練習もだんだんとしなくなった。
練習しないものだから先生の前でなんてもちろん弾けず、お稽古中に音に詰まって沈黙の時間が続くことが増え、気まずい思いで1時間を過ごさなければならなかった。
先生も呆れているような気がしてますますピアノが嫌いになっていった。
しかし辞めたいとも言えなかった。
学校と一緒で行かなければならないものと思っていた。
しかしピアノは弾きたくない・・・
そこで小学4年生の私が考えた策が「包帯作戦」だった。
家の救急箱から包帯を盗んでそれをキティちゃんの手提げに押し込み、ピアノ教室に入る前に左手にぐるぐると巻き付けた。
それから何食わぬ顔で教室に入り「先生こんにちは」と挨拶する。
「レモンちゃんこんにちは!あら?左手をどうしたの?」と先生が聞く。
「あの、この前手首をひねって痛めてしまって・・・」と私は少し痛そうに演技をする。
「あらあら、それはいけないわね。ではしばらくは右手だけの練習をしましょう」と先生。
『やった!成功!』と私は心の中でそう思っていた。
今思い出しても、何とも恥ずかしい小細工をする嫌なガキだったろうと情けなく思えるのだが、嘘偽りない事実として私は両手でピアノを弾くことを回避するためにこのような荒業に出たのだ。
それほどにピアノが嫌だった。
右手だけの(主旋律)練習ならなんてことはなかったので数週間はこれでしのげた。
けどいつまでもこうしているわけにいかない。
何度目かのおけいこで先生に「レモンちゃんまだ治らないの?」と疑われ始めたのでこれはもう通用しないなと思ったのだ。
たぶん先生も薄々感づいていただろう。
所詮子供の浅知恵だ。
包帯の巻き方もなってなかったろうし、そんなウソとっくに見破ったうえで付き合ってくれていたかもしれない。
私は再び練習に精を出すしかなかった。
4年生の途中でようやく子供のバイエルの上下巻が完了し、通常の子ならばその次の教本は「ソナチネ」になるのだが、そして私もてっきりソナチネに行けると思っていたのだが、先生が私に用意してくれた教本はソナチネではなかった。
「じゃあレモンちゃん、今日からはこの教本で練習しましょう」と出された本は見たことも聞いたこともない教本だった。
今では名前を忘れてしまったが、とてもきれいな外国の挿絵の本で、中の楽譜にも一つ一つにきれいな挿絵が付ていて、曲もどこかの外国の変わった曲ばかりで、いわゆる練習本や教則本とは違った代物だった。
たぶん私の実力的にソナチネはまだ早かったのか、先生が私にはガチガチの教則本よりもこういう自由度の高い曲や、純粋に音楽を楽しむような楽譜のほうがあっていると判断してくれたのか、とにかく私には周りの子とは違うやり方をとってくれた。
それが結果的に大正解だった。
私はこの外国の挿絵のついた美しい教本をすごく気に入り、曲も弾いてて楽しいものばかりで、まるで人が変わったように家でもピアノの練習に精を出した。
先生というのは本当にすごい。
私を1年生から見てきていて性質を分かっているからなのか、3~4年の時の嫌々期を知っているからなのか、通常の教育方針に従わずにバシッと方向性を変えて、教本一つ変えただけで子供のやる気を引きだすのだから本当にすごいと思う。
この先生には本当に感謝している。
それからの私はピアノが大好きになっていった。
曲が楽しい、弾くのが楽しい、また好きでやっているとどんどん弾けるようになって、またそれが自信につながっていった。
どんどん楽譜のページが進んでいった。
そして最後のほうになると「この楽譜が終わったらソナチネに行きましょう」と先生に言われて、自分にもソナチネに行ける実力が付いたのだととても嬉しく感じた。
先生はきっとピアノへの興味を失っている私を見てこのきれいな楽譜を選んできてくれたのだと今では思う。
当時はインターネットとか通販とかなかったので、いろいろ探しまわってくれたのかな…と考えると感謝の気持ちしか湧いてこない。
そして5年生になり、ようやくその教本が終わってさあいよいよソナチネだっ!というところで・・・私は家の都合で東京へ引っ越しをしなければならなくなった。
すごく嫌だった。
転校したくなかった。
ピアノもせっかくうまくなり始めたのに、ようやくソナチネへ行けたというのに、もう一つやっていた習字のおけいこだってもう少しで「行書」を習い始めるところだったのに・・・
幼馴染やお友達と離れるのも嫌だ、お家が変わるのも嫌だ、学校が変わるのも嫌だ・・・
でも子供がどう思おうが、どう言おうが、それが通ることはない。
まるでベルトコンベアーに乗せられた商品のように勝手にいろいろなことが決まっていき、勝手に行き先が決定される・・・そんな心境だった。
東京に引っ越すことをピアノの先生に告げた時先生に「東京でも続けるのよ」と言ってくれた。私もそのつもりだった。
お習字もピアノも東京で続けようと思っていた。
そして5年生の夏休み中に東京に引っ越し、いろいろとひと段落したところで母と一緒にピアノ教室がないか探しに回った。
東京と言っても埼玉に近い田舎のほうで、近所は学校やスーパー以外特に何もないところだった。
結局ピアノ教室は近くにはなく、あきらめるほかなかった。
お習字のほうは転校先でできた友達のお母さんが書道教室を自宅でやっていたので、中学生に入るまではそこで続けることができた。
一番続けたかったピアノはそれきりになってしまった。
家にピアノはあったので、自分で楽譜を買って独学で練習したりしていたが、中学に入り勉強だ部活だと忙しくなってからはだんだんとピアノの練習もしなくなていった。
けど心の中ではピアノをやりたかった。
中途半端なままで終わってしまったピアノの練習。
それから時は流れ、18歳くらいの時にまだ消えていなかったピアノへの思いが再燃し、楽器店でショパンの夜想曲の楽譜を買い、自力で毎日毎日練習を始めた。
これがその時の楽譜である。
私はソナチネはやっていないのでこの楽譜のレベルは私の実力からしたら難易度が高かった。
けど楽譜の見方、音の長さ、記号の見方、リズムといった基礎的なことは分かっていたので練習すれば何とかなるかなと思って楽譜を買った。
そして最初は右手だけ、今度は左だけ、次は両手で何フレーズかだけ・・・というようにピアノ教室での練習方法そのままに繰り返し練習した。
毎日やっているとだんだんスラスラ弾けるようになり、私はついに全部間違えることなく弾けるようになった。
この時ほど嬉しかった瞬間はない。
もっとほかのも弾けるかも!!とワクワクした。
そう思っていた矢先、今度は長年愛用していた電子ピアノが壊れてしまった。
出ない音やかすれる音があるのである。
それと重なるようにまた引っ越しをすることになり、壊れていたこともあってついにはこのピアノとさよならすることになってしまった。
それから10年くらい。
ピアノは弾いていない。
けどここにきて私はまたピアノ熱が高まってきている。
弾きたくて仕方がないのだ。
弾けるようになった夜想曲のほかにも、トルコ行進曲、月光を弾けるようになりたい。
その前にソナチネをやろうかしら?きちんと練習しなおそうかしら?
などと考えている。
それにはまずピアノを買わなければならない。
88鍵盤あれば電子ピアノで構わない。
最近通販を見て検討しているのだが、楽しくてたまらない、ワクワクしている。
ああ、私はやっぱりピアノが好きなんだなと思った。
子供の時に果たせなかった気持ちというのはなくならないのだな…と思った。
でも私はまだ生きているのだ。
だから何度でもやり直したり、挑戦することができる。
続けたかったピアノへの想い、もう一度あの続きから始めて見ようかと思っている。
本日も読んでいただきありがとうございました!