三日月レモンのちょこっとエッセイ

絵や絵本を描いて暮らしています。日々の思い、感じたこと、体験したこと、過去のこと、そんな何気ないことを書き綴っていきます。

何も変えられないこの手を太陽に向けて

 ブログ生活21日目

 

「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

 

宮沢賢治の有名な言葉である。

私は初めてこの言葉を見た時違和感を感じた。

「世界全体の幸福なんてあるのかなぁ…1人1人が幸福でいてこその世界なんじゃないのかぁ」

と生意気にもそう感じた。

浅はかで薄情な考えなのかもしれない。

でも正直にそう思ってしまった。

 

 ある有名な映画監督がこう言っていた。

「歴史を変えてやるって思っていつも作っている。実際変わらないんだけどね」

私はこの言葉に共感した。

決して気持ちのいい、すっきりとするような共感ではない。

現実を突きつけられた、鈍い痛みを伴う共感だ。

そうなのだ、結局「何も変えられない」これが現実のように思う。 

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 映画のハッピーエンドは大好きだし、ハッピーエンドのものを選んでみる時もある。

しかし「結局何も変わらなかった」という終わり方も……嫌いではない。

この感情を何と表現すべきか大いに言葉に迷ったが、「好き」というのとはまた違う。

現実を突きつけられた安心感…というのか納得する感情というのか。

例えばずっと体の具合の悪い箇所があって、どの病院回っても「異常ありません」と言われ続けて、でも自分では具合が悪いのだから腑に落ちないところがあって、最後に見てもらった病院で「これは○○です」とはっきり病名を言われたとき、私だったらショックもあるがホッと安心する気持ちもあると思う。

自分の具合の悪さの原因が病気によって引き起こされていたと証明された安心感だ。

映画の「結局何も変わらなかった」という終わり方に感じる気持ちはそれに似ている。

不確かな上に立つ不安感よりも、確かな現実を突きつけられるほうが安心してしまうものなのではないだろうか。

 

私は自分が苦しくなったり、疲れている時こんな風に考える。

宇宙には把握しきれないほどの宇宙があると言われており、その中に私達が存在する宇宙がある。

その宇宙の中の太陽系の惑星の地球って星を考えると、砂漠の中の一粒の砂にも満たないほどちっぽけな存在かもしれない。

そんな一粒の砂にも満たない地球の、日本のある県の、ある市の、ある町に住む私一人なんて、なんてなんてちっぽけな存在だろう。

そんな小さな小さな一人の人間という生き物が、今日うまくいかなかったからって何だというのだ、今日疲れて休んだからって何だというのか、今日仕事をさぼったからって何だっていうのか・・・

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 私は生きてさえいれば何をしたっていいと思っている。

もちろん犯罪以外でだ。

マナーとか、ルールを守るという大人としての品格を持ってさえいれば、誰の目を気にせず、誰の言葉もまともに受け入れることなく、誰もかれもが好きに自分の人生を謳歌し楽しむべきだと思う。

だってテレビのニュースや身内の話にでも、人は突然死ぬという事実が実際にあるのだから。

いつものような生活が明日も同じように起こるとは限らない。

いつも通りの日常が急に終わることもある。

事件や事故に巻き込まれることも、突然心臓麻痺になることもある。

その方たちはきっとみんな今日死ぬだなんて一ミリも思っていなかっただろう。

縁起でもないことを言えば、誰だって明日死ぬかもしれない確率は0ではないのだ。

だからと言って怯えて暮らすのではないが、私は割といつ死んでもいいように…と頭の片隅で考えているところがある。

例えば食べたいものがあったらその時に食べるようにし、いいなと思ったものを見つけたら本当に必要な場合はその時買うようにする。

後悔しないように、明日死んでも悔いが残らないように…と考えている。

 

この手は何も変えられないけれど、無意味なことかもしれないけど、ただこの手を精いっぱい太陽に向けて今日を、今を生きる。

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ただそれだけ。

今が楽しい。この瞬間が好き。それだけ。それだけなのである。