三日月レモンのちょこっとエッセイ

絵や絵本を描いて暮らしています。日々の思い、感じたこと、体験したこと、過去のこと、そんな何気ないことを書き綴っていきます。

「批判や干渉する人」の理由に目から鱗!

ブログ生活82日目

 

「心」をテーマに絵本を書いていて、私の中でずっとモヤモヤと疑問に感じていたことをふと思い出した。

疑問…を通り越して理解不能、理解が及ばない、分からない…といったほうがいいかもしれない。

それは何かと言うと、「他人に干渉する人」だ。f:id:lemon_mikaduki:20190709201205j:plain

私は他人に干渉するという行為がどうもわからない。

家族間、友達などの親しい間柄なら「心配しているから」「大丈夫?」という思いで干渉ないしアドバイスや助言するのはわかる。

しかし例えばインターネットなどの名前も顔も知らない他人、会って間もない人、たいして知らない知り合いなどが、「○○したほうがいい」「しないほうがいい」「こうすべき」などと言うのは何なんだろ?とずっと思ってきた。

 他にも芸能人の方が「〇〇始めました!」とか、「〇〇挑戦します!」と「誰々と結婚します!」とかに対して批判やお節介の言葉を目にした時も同じ。

 

「関係なくないか?」と思ってしまう。

 

私が冷たい人間なのだろうか?

犯罪行為は別として、誰がどう生きようと、何を選択しようと、私はその人の勝手ではないかと思ってしまう。

その行為が自分と違うから?世間の常識や大勢の生き方と違うから?

反対や批判、ましてや考えの強要や押し付けるような言い回しというのが、いつも「ん?」と引っかかってしまう。

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 そんな理解できないモヤモヤをずっと抱いていたある日、その答えをスパッと書いた文章に出会った。

知っている人も多いだろう、キングコングの西野さんだ。

彼のこんなブログの記事を見つけたのです。

それは私が感じていた長年の疑問に対する的確な答えでした。

 
自分の人生を自分の好きなように生きることを世間は許しません。
何故、わざわざ時間と体力を割いて、自分とは関係のない他人の生き方に難癖をつけるのかが理解できませんでしたが、数年前に合点がいきました。
 
それは
「俺も折り合いをつけたのだから、お前も折り合いをつけろよ」
という”折り合いの強要”で、つまり、
「早く諦めてくれよ。自分の人生を好きに生きられることが証明されてしまうと、それを諦めた自分がバカみたいじゃないか」
です。
そんな「知ったこっちゃねーよ」な都合が、批判となって、多数決で正論となって、のしかかってきているのだと。
 
 
 

 

「ああ、そうか、だからなのか…」

とまるで詰まっていた排水溝の蓋が外れて水が勢いよく流れていった気分になった。

目から鱗、もうすっきり!なるほど!

 

 と、なれば、もし、他人にあーだこーだ言われたり、関係ないことで批判されたりしている人がいれば、全く、これっぽちも気にしなくていいということがはっきりと証明されることになる。

なぜならば、批判や干渉をしてくる人は、そうできなかった自分を納得させるために、寄せ集めたいろんな視点からの正論を自分自身に言い聞かせているだけに過ぎないからだ。

 

犯罪を起こしたり、人に迷惑をかけたりしなければ、何を選択し、自分のペースで、自分が幸せだと思う生き方を選択し、幸せになる権利が誰にでもあると私は強く思います。

過去がどうとか、何を選択してきたかに焦点を当てて評価する人もいるが、大切なのは今なのだと思うのです。

私たちは過去にさかのぼって生きているわけではない。

未来に向かうために、今を生きている。

幸せを追求してはいけないなんて、たとえ王様にだっていう権利はないのです。

 

とにもかくにも西野さんには心から感謝の気持ちでいっぱいです。

これですっきりぐっすり眠れる(いつも寝ているけど…)

今日もここまで読んでいただきありがとうございました!

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