三日月レモンのちょこっとエッセイ

絵や絵本を描いて暮らしています。日々の思い、感じたこと、体験したこと、過去のこと、そんな何気ないことを書き綴っていきます。

おしゃれ童子

ブログ生活137日目

 

子供の頃から人には邪魔されたくない、口出ししてほしくない、自分だけの美学のようなものがあった。

小学校に通い始めた6歳頃から自分で決めた服じゃないと着ない子供だった。

母曰く、6歳上の姉は小学校のうちは母が用意した服を文句も言わずに着ていたそうだが、私は何を選ぶにも、何をするにも「自分でやる!」と聞かん坊だったようで、さすがに3人目の子供とあって、母も育児にいい意味で手抜きを覚えていたのか「それなら好きにしなさい」と放っておいたと、最近、何気ない食事の会話で聞かされた。

 

その私のへんてこな過去の美学は、今、写真で見るととても滑稽で、「よくこんな格好で学校行っていたな・・・」と、残しておきたくない過去に匹敵するほど珍妙であった。

母の作ってくれたキュロットスカートに、トレーナーをINしていて、ひざ丈まである柿色の靴下は片方がくるぶしまで垂れさがっていて、もう片方はひざまで伸ばし切っている。

ケロケロケロッピのリュックを背負い、腰には黒のウエストポーチを付けていて、まるで買いだしに来たおばさんか、集金のおばさんのようにも見えて、ひどくマヌケな恰好をした写真がある。

絵に描くとこんな具合である。 

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どういういきさつか忘れたが、小学校3年生の時クラスの4名ほどの男女がプロの写真やさんに撮影してもらうという機会があり、私はそのうちの1人に選ばれた。

学校のプールの前の大きな白壁の前に立って、1人1人写真を撮られたのだが、その時も私はやっぱり柿色の靴下を履いていて、やっぱり片方をくるぶしまで垂れ下げ、もう片方はひざ丈までのばして履いていた。

その滑稽な姿はA4の額入りの写真として後日先生から手渡され、しばらく自宅に飾られていた。

それから大人になって実家の荷物の掃除をしていた時に、それを押入れの段ボールの中から見つけ、その珍妙ないでたちに自分のことながら絶句したのを覚えている。

マヌケったらない。

さっきも言ったようによくこんな姿で学校に行っていたな…と恥ずかしさがこみ上げるほどであった。

「こんな写真いやだよ、残しておきたくないよ」と母に言ったところ、母は私から目をそらして少し悲しい表情で「・・・でも私にはそれを捨てることはできないよ」とつぶやいた。

あまり愛情表現をしてくれなかった母から初めて聞いたそんな言葉に少し驚き、何となく私も捨てることなどできなくなり、今でも押入れの奥底にしまってある。

こんな写真でももっと歳をとれば愛おしく、懐かしく感じられるようになるのかもしれないというささやかな期待を込めつつ。

 

それでも小学校の頃なんてまだマシだった。

中学、高校、専門学校と10代の私の美学はクレッシェンドのように異様さ、滑稽さを増していく一方だった。

造花の花をヘアアクセサリー代わりにつけていたり、フェルトで作った赤いバラをやっぱりヘアアクセサリーにして付けていたり、古着屋に行っては奇抜なワンピースを魔女みたいでかっこいいと一人満足して着てみてそれを両親に「なんだその恰好?!」と呆れられた。

一方の私は「親にはこのおしゃれさが分かっていない!」とやたらにイライラして、まるで無視して、むしろ意地でも貫くという気でいた覚えがある。

じゃらじゃらとどこかの民族のアクセサリーを首にも手にも耳にも付けてみたりした。しかしただでさえ奇抜なファッションや個性的な人が多いデザイン学生で私はむしろ地味なくらいだった。

とにかく個性を求めて恥ずかしさなんてゼロ、自分の着たいもの、表現したいものだけに焦点を当ててどんどん珍妙になっていっていた。

毎日テーマを決めていて、今日はオリエンタルに、今日はスポーティーに、今日は原宿系でと人目を一切気にしないヘンテコなファッションを楽しむ毎日だった。

そんなファッションが急にできなくなったのは20歳を過ぎて働き始めた時。

急に人と違うことがめちゃくちゃ恥ずかしくなり、あれだけ個性個性と追求して表現してたのに、今度は180度変わって、とにかく目立たないためには、普通でいることばかりを異様に気にするようになっていた。

当たり障りのないシンプルな服、一般受けするこぎれいな恰好、今まで1ミリも考えてこなかった女の子らしい服。

 

人の思考、考えというのは本当に不思議である。

あんなに夢中だったことも、何かのきっかけでとたんに恥ずかしくなったり、できなくなったりする。

若さゆえなのか?

それでもやりたいことを一心にやったことに関してはいっさいの後悔もしていない。

むしろ若いからできたこと。

若いから人目も何も気にせずに自分に夢中になれたこと。

今振り返ると恥ずかしいが、私は大変に満足している。

 

やりたいことをやる。

この先、何千年経とうが何万年経とうが二度と生きられない一度きりの命。

地球の歴史上ではほんの一瞬・・・いや、一瞬という概念にも満たないほどわずかな人間の命。

誰に遠慮がいるだろうか?

誰の目を気にして、誰にこびへつらって、誰に頭下げて生きることがあるだろうか?

細かいことを気にすればそれらに対する理由はいくらでもあるだろうし、そうは言っても…という反論ももちろんあるだろう。

だけど私は思うのだ。

極論、自分が楽しければ、自分が幸せなら、自分が満足ならそれに越したことはないのではないかということ。

自己中心的と思われるかもしれないが、私は極論としてそう思えるのである。

だからと言って他が不幸になれば…とか、他の人の幸せ奪ってまで…とか、踏み台にして…とかではない。

ある程度はわがままに、自己中心的に、自分が可愛く、大事にという気持ちを持っていいのではないかと思うのだ。

そのあたりの節度を持つ、バランスよく…というのが最も難しいところなのだが、細かいことは抜きにしてこの世に生まれてきたからには、たった一度の生を思いっきりあるがままに生きたい、いや、生きていい!!と思ってやまないのだ。

 

限りある命、一瞬の生命、二度と生きられないこの地球での生を何していきよう?

何をしたら満足か?

悔いなく終われるか?

昔のあるがままに生きていた自分を振り返って、改めてそんなことを考えている初春の今日この頃であります。

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本日も読んでいただきありがとうございました!!