私のお父さん①
ブログ生活141日目
私は人には語らない、自分の中の宝物として思い続けている大切な記憶がある。
しかしこの大切な記憶や想いは自分が死ぬまでに必ず文章なり何らかの形として残しておきたいと思っていた。
けれどあまりにも思い入れや気持ちが強すぎて長い間それを表現することができないでいた。
この気持ちを晒して馬鹿にされたくない、他人から見たら「なんだそんなこと」で終わってしまう話なので安売りしたくない・・・という思いも相まって踏み切れないでいた。
たぶん10年以上はこんなことを考えては躊躇して、また書いてみようかと思っては諦めて・・・を繰り返してきた。
しかし今ようやく書くときが来た気がしている。
どこにでもいる普通で平凡な女の、誰の記憶にも残らないような、ただの私と父との話と言うだけの手記なのだが、私にとっては最も高潔で唯一の宝物のように、誇りのように思っている記憶なのである。
・・・私の父は私が19歳の時病気で他界した。56歳だった。
私は小さいころから父が大好きで、物心ついた時は「家族の中で唯一の理解者」とさえ思っていた。
父には怒られたことも、もちろん叩かれたこともない。
母と喧嘩しているのを見たこともない。
穏やかで、優しくて、真面目で、誠実で。
他界しているから美化しているわけではなく、ブログを書いてるからいい恰好をしているわけでもない。
嘘偽りない事実として、私はこの世の中で最も尊敬している人物はと聞かれたら迷うことなく父と答える。
父には父親がいなかった。
正確には父が2歳の時に亡くなった為、父は”お父さん”という存在を知らずに母の手一つで育てられた。
時代というものもあったろうが父と母が結婚した時、母は父に「僕が働きますのであなたは子供たちのそばにいてほしい」と言われたと言っていた。
私が想像するにきっと幼少時代母不在の寂しさがあり、自分の子供にはそんな思いをさせたくないと決めていたのかなと思った。
父は自分が父親になるという立場に立ったとき、はじめは子供とどう接していいか戸惑いを見せていたという。
でも小さいころのアルバムに写る父の顔はどれも笑顔で、楽しそうで、幸せそうだった。
第一子である姉が生まれた時はそれはもう誰よりも張り切って12段ものひな人形を買って来たり、次に生まれた兄には農家の一軒家で飾られるような大きな大きなこいのぼりや、子供の背丈くらいはある立派な5月人形の兜を買ってきたようで、母はこの話をよく私に聞かせてくれる。
「うちは団地だったのにそんな大きいもの買ってきて…困ったものよ…」と母はいつだって愚痴やボヤキのような口調で言うのだが内心は嬉しかったに違いない。
だってその証拠にこの話をするときは嬉しいときや、話が盛り上がっている時、お酒の席なんかで上機嫌の時に話すのだから、素直じゃない母はボヤキ口調だが本当は幸せな思い出の一つなのだろう。
父は割と忙しい人だった。
出張や転勤が多く、単身赴任をしていたこともあった。
けれども私の記憶の中に「お父さんがいなくて寂しい」という気持ちをあまり抱かなかった。
多分それは、少ない時間でも一緒にいられるときは惜しみない愛情を注いでくれたからだと私は思っている。
私は末っ子で姉や兄が中学生になって土日は部活やクラブに出かけ、母も趣味の料理教室やママさんバレーに出かけていたので、休みの日は私は一人でいるか、友達のうちに遊びに行っていることが多かった。
周りには近所の幼馴染がいっぱいいたので別段寂しい思いをした記憶はないのだが、日曜日に友達のうちで遊んでいると父が私を呼びに来てくれたことがあった。
友達のおばさんが「レモンちゃん、お父さんが来てるわよ?」と言うので玄関へ行っていると、父が立っていて「遊びに行かないか?」と言うのだ。
もちろん私は「うん!」と言ってそのまま父と出かけた。
こんなふうにして父と2人で出かけたことが子供時代に3回あった。
私はこの3回の出来事を今でもはっきり覚えている。
1回目は陶器市だった。
陶器市と言っても父と娘が食器やら瀬戸物を求めに来たわけではなく、そこで開催されているイベントやら屋台のお店やらを見に行った。
丁度お昼時だったので屋台でタコ焼きやら焼きそばやらを買って、海岸沿いに腰かけて二人でむしゃむしゃそれを食べた。
別段おしゃべりした記憶はない。
ただ「うまいか?」「うん」くらいの会話はあったかもしれないが、人目にはただ親子が休日に海岸沿いで屋台のタコ焼きを食べてるってだけの話。
けど私にとっては忘れることはない父との思い出なのだ。
2回目は冬で正月用に食べる牡蠣を漁港に買いに行く為のお使いを含んだドライブだった。
12月31日だったと記憶する。
漁港で一斗缶に入った牡蠣買った帰り道、父は少し遠回りをして少し標高の高いところを車で走らせてくれた。
その途中の道々に長崎では珍しく雪が積もっている場所があった。
真冬でもほとんど雪を見ることのない県なので、私は車を降りて子供の手に収まるくらいの小さな雪だるまを作った。
そしてそれをどうしても母に見せたかった。
「これお母さんに見せたい」と言ったが、自宅まではまだ車で30分ほどかかるので解けてしまうかもしれないと父に言われた。
私がその時がっかりしたそぶりを見せたためか、父は雪だるまが溶けないように可能な限り急いで車を走らせてくれた。
暖房を切り、父は自分のジャケットを私に着させてくれ、車の中で一番寒い寒いであろう助手席の足元に雪だるまを置いて車を走らせた。
そのかいあって雪だるまは大して溶けもせずに無事に生きていてくれ、私は大喜びで母にその雪だるまを見せに行った。
「見て!お母さん!雪だるま作ったんだよ!」
私自身は何もしてないが苦労して持ち帰った雪だるまを私は得意げな気持ちで母に見せた。
「へー、寒かったんだね。で、牡蠣は買えた?」
・・・・・・母はドライな人なのである・・・
3回目は今はなきオランダ村というテーマ―パークに連れて行ってくれたこと。
知らない方に説明するとハウステンボスの縮小版と言うか、オランダの街並みをコンセプトにした遊園地のようなところだ。
当時はまだフリーパスとかそういった乗り物の仕組みはなく、乗るたびにお金を払うか、2000円分や3000円分のカードを買って乗るというシステムだった。
父は初め2000円分のカードを買った。
今でも忘れはしない「ゴブリンの部屋」というアトラクションに私はドハマりした。
アトラクションと言っても乗り物に乗るのではなく、スクリーンに映し出される質問に答えていき、その回答によって進む部屋が分かれていくという動く心理テストのようなものだ。
最後にみんなが同じ部屋にたどり着き、もっとも天使的な選択をした人は選ばれてメダルかバッジをもらえるというものだった。
私はこれが面白くて面白くて父に「またやる!」「またやる!」と3度も4度もせがんだ。
父と2人で入るので2000円のカードはあっと言う間になくなってしまう。
私がせがむたびに父はカードが売っている自販機に走り、自分のお財布から千円札をするりするりと投入していた。
私はその時の父の姿をいまだに忘れられずにいる。
せがんではみたものの子供心に「なんだか悪いな・・・」という気になったからだ。
うちは金銭管理を母がしていたため父のお金は小遣い制だった。
その毎月の限られた小遣いの中で私が「ゴブリンの部屋」に何度も入りたいがために父はこの千円札を自販機に投入しなければならないと思うと・・・胸が痛んだ。
しかし父は「もういいだろ?」とか「もうやめなさい」とか一切言わずに、私が望むままに2,000円のカードを買って何度もゴブリンの部屋に付き合ってくれた。
たった半日でも一緒にいてくれたこと、少ない時間でもいっぱいに愛情を注いでくれたことは、一緒にいられる時間が少なくても寂しい記憶を残さないんだな…ということを父から学んだ。
本日はここまでにします。
ここまで読んでいただきありがとうございました!