なりたかった自分になるのに遅すぎるということはない
ブログ生活149日目
お久しぶりでございます!
大変にご無沙汰しておりました。
約3か月もの間更新ができず、ようやく久しぶりに落ち着いてブログを書くことができました。
特に何かあったというわけではないのですが、今年の初めに申し上げておりました通り、来年の2月に受験をしようとしている精神保健福祉士の国家試験の勉強に集中しておりました。
この間絵も一切描かず(私は一つのことにしか集中できないのです)、すっかり脳内は精神保健の勉強一色になっていました。
しかしここにきて最近ようやく自分というものが分かってきて、私は心理学や精神保健福祉という分野と、クリエイティブなこと両方が自分の好きなこと・やりたいこと、自分というものを形作っているものだということが分かりました。
高校生の頃も「心理学」を学ぶか「絵」を学ぶかで進路で大いに悩み、結局「絵」の学校に行きましたが、「心理学」への探求心も捨てきれずに22歳の時に夜間の大学に通いました。
(絵の学校のことも、大学時代のことも過去のブログで多々書き綴ってきておりますので、良かったら読んでみてください!)
そして30代になってもなお、「絵」か「心理学」かで揺れていたのです。
・・・しかしもう揺れるのはやめました。
両方好きなのだ、どちらも捨てきれない、どちらも学び関わっていきたいのだから、別にどちらかを捨てて一つに絞る必要はないのだと思ったのです。
それまではなぜだか一つに絞らなきゃという概念に捉われていました。
どっちかで生きていかなきゃいけないと・・・
誰にもそんなことを言われていないのに、なぜかそう思い込んでいました。
けれど最近あるイギリスの番組で、クリエイティブなこととは別に全く違う仕事をやっていたり、はたまた似たようなことで二つの仕事をしていたりする人々の生活を特集しているテレビを見ました。
とにかく誰もが当たり前のようにただ好きなことをやっているというイギリス人の姿がそこにはありました。
全く異なる仕事をしていても誰も「なんで一つに絞らないの?」なんていう人はいません。
誰もが「これも好きで、これも好きだからやっているのよ」という当たり前の普通の感じで人生を楽しんでいました。
「そうだよね、好きなことやればいいだけだよね、なんで一つに絞らなきゃって思っていたんだろう?」
と、なんだか自分のこれまでの妙な捉われがおかしく思えてしまうのと同時になんだか気持ちが軽くなって、なんだか自分が許されたような壁がなくなったような晴れ晴れしい気持ちにすらなりました。
もっと広義の意味で考えると私は「知ること」と「作ること」が好きです。
子供の頃から「なぜ?」という疑問があったら、子供電話相談室によく電話をかけて知るまで追求する子供でした。
そしてテレビではひたすら教育番組をみては何かを真似して作っていました。
牛乳パックやかまぼこの板、発砲トレーで工作したり、お菓子づくりやフェルトで作る小物づくりも大好きでした。
そう、三つ子の魂百までという言葉の通り、小さな時から性質や特性は変わってないことに気が付かされます。
好きなことが分からないときや、何に興味があるかわからない時、迷った時は子供の頃を思い出せばおのずと答えが見えてくるものなのですね。
大人になるにつれてだんだん興味の対象が彫り下がり狭義の意味になってくると、迷ったり分からなくなってきたりしますが、一度立ち止まって自分自身をズームアウトしてみて単純な動詞で好きなことを表現してみるとハッと気が付く物があります。
タイトルの言葉はイギリスの作家ジョージ・エリオットの言葉ですが、
「なりたかった自分になるのに遅すぎるということはない」のです。
私の大好きな言葉です。
そんなこんなで、しばらく精神保健の勉強に集中していましたが、また最近は絵を描きたい欲が出てきました。
試験前なのであまり多くの時間を費やすことはできませんが、大好きなクリスマスの絵を描いていこうと思っています。
絵が完成次第Twitterやアートメーターのほうに掲載していきますので、よかったらまた見に来てください!
ブログのほうもまた更新していこうと思います!
寒くなってきましたので、皆様お体はお大事にしてお過ごしください!
最後まで読んでいただきありがとうございました!