私のお父さん②最終章
ブログ生活142日目
※今回のブログは前回の「私のお父さん①」の続きになります。
私は父が怒ったり、人の悪口を言ったり、愚痴や不満を言ったり、母に偉そうにしたりしているのを見たことがない。
不機嫌になっているところを見たこともないし、イライラしているのを見たこともない。
お酒を飲むと少し上機嫌になっておしゃべりが増えるくらいで普段はいたって穏やかでご機嫌な人だった。
そして両親の仲がいいことが私の密かな自慢だった。
よその家の人に「レモンちゃんのお父さんとお母さんは仲がいいわね」と言われたことがあるのだが子供心に嬉しかったのを今でも覚えている。
そして私の子供時代が過ぎ去り、月日は流れ・・・
私が19歳の時に父は3年間の闘病生活の末に帰らぬ人となった。
56歳だった。
亡くなる1カ月前より容体が悪くなり入院し、家族や親せきの人達と交代でつきっきりで寄り添っていたのだが、ちょうど誰も付き添っていなかったある冬の明け方、父は一人で逝ってしまった。
何とも父らしい最期だった。
父が病院から自宅に帰ってきて、家には親戚の者が次々に到着し、狭い私の家はすぐにいっぱいになってしまった。
身内だけのささやかな葬儀にするつもりだったのだが、どこからか父の会社の人が父の訃報を知り、その日の夕方には同僚の方3人が私の自宅に駆けつけてくれた。
初めてみる父の会社の人だった。
和室で眠るように横たわる父の姿を見たとたん、同僚の一人が突然声を上げて泣き崩れた・・・
・・・慟哭とはこのことを言うのか・・・
と私はまるで他人事のように観察していたのを覚えている。
私は大人の男の人が声を上げて泣き崩れるのをドラマ以外で初めて見た。
そして嗚咽の響くその部屋で私は「父は幸せ者だな・・・」と思っていた。
顔を見たとたん人目もはばからず泣き崩れてくれる人がいるなんて・・・
その方はいたたまれず席を外し玄関のほうに行ってしまったのだが、残された同僚の方二人も泣きはしなかったもののただ1点だけを見つめまるで抜け殻のようにたたずんでいた。
次の日の通夜には予想をはるかに超えて父の会社の関係者だけでも200人近くの人が参列してくれ、母の想像とは真逆のとても盛大なお葬式となった。
私はそこに父の功績・・・というか人徳の高さのようなものを感じずにはいられなかった。
通夜が終わり葬儀場の2階で軽食を食べている時、私のもとにある方が来てくれた。
その人は昨日父の顔を見るなり泣き崩れた父の同僚のNさんだった。
「レモンちゃんだね?」
Nさんは落ち着いた穏やかな声で私に話しかけた。
「あ、はいそうです」と私は答えた。
「昨日はいきなりあんな姿を見せてしまってすまなかったね…。レモンちゃんやお母さんのほうがもっと悲しいのに…」
と言ってとてもすまなそうに私なんかに頭を下げてきた。
「あ!いえ・・・!その・・・悲しいのはみんな一緒なんで・・・!」
・・・私はうんと年上の人に頭を下げられたことに慌てふためき、あまりの動転に訳の分からないことを言ってしまった。
Nさんは私の慌てぶりを笑いもせず静かな声で自然に会話を続けてくれた。
「君のお父さんは本当によくできた人でね・・・会社が終わってよく飲みに行ったりしていたんだけど、そういった場所ではみんな会社の不平不満や愚痴をこぼしたりするんだけど、僕は君のお父さんと30数年付き合ってきてただの一度もそういった不平不満や愚痴、そして人の批判を一切聞いたことがないんだ。いいかい?ただの一度もないんだよ?僕なんていつだって女々しく不満や愚痴を酒の席でこぼすんだが、君のお父さんからは本当に聞いたことがないんだ。・・・それに娘さんに言うことじゃないかもしれないが、女の人の噂だって一度もない人だったんだ。レモンちゃんのお母さんやレモンちゃんたちを本当に大事にしていたんだね。お酒の席では君やお兄さんやお姉さんの話をよく聞いたものだよ。だから初めて会うけど他人のような気がしなくてね。いつも自慢していたよ。ごめんね、おじさんお酒飲んだから少ししゃべりすぎたね。でも本当に君のお父さんはよくできた人だった。」
一言一句正確ではないが、だいたいこんなようなことを言われたのをはっきりと覚えている。
なぜならば私はそれまでの19年間、会社での父を知らなかったから新たな一面を知れた嬉しさ、それと同時に誇らしさを感じたからだった。
2日にわたったお葬式が終わり、父が遺骨になって家に戻ってきた時も私は一切泣かなかった。
「家族の中で唯一の理解者」と思ってた父なのに、私は父が亡くなってからというもの火葬場でさえ涙は出なかった。
ただ「早く1人になりたい・・・」とだけ思っていた。
涙が出ない代わりに胸が雑巾のように絞られるような・・・鉛を飲み込んだような・・・そんな言い表しようのない苦しさのようなものだけがあった。
忙しかった日々が過ぎ去り、父がいないということがようやく現実として認識し始めた頃からようやく私の目からは涙が出るようになった。
死ぬ間際まで私の頭を撫でてくれた無償の父の愛。
具合が悪くても、病気と闘っていた時でさえ家族に愚痴や弱音を吐かなかった父。
とにかく最後までみんなが心配しないように、不安にならないように一人で戦っていた父。
ただ、病気がひどくなって大好きなお酒を飲むのもままならなくなっていたある日、父がマンションの5階の手すりから下をのぞき込んでいたことがあった。
私が出かけようと家を出た時だった。
その後ろ姿が小さく、しょぼくれていて、私は直感的に「落ちようとしているのではないか」と感じた。
「お父さん、もうお家入る?」
私はとっさにそう声をかけた。
「うん」
父は私に気が付き家に戻っていってくれた。
あの時の父の心情はいまだに分からない。
ただ単に気分転換に外に出て道行く人を見ていただけかもしれない。
けど私はあの時身の毛もよだつような恐怖を直感的に感じたのは確かである。
物言わぬ父が抱えていた苦しみを思うともっと娘として何かできたのではないか・・・と今でも後悔のような念を感じづにはいられない。
「悲しみは時間が癒してくれる」なんて言う人もいるが、私はそうは思わない。
時間は悲しみを癒してなんかくれない。
悲しみは残り続ける。あり続ける。あの時から何も変わらずに・・・
私は今でも父のことを考えると変わらずに悲しく涙を流す。
何も変わっていない。
昨日のことのように心が痛く悲しくなる。
人を亡くす・・・というのはそういうことなのだと思っている。
けど払拭したいとも思っていない。
父がいないことは悲しい、苦しい、寂しい。
そんな感情のままでいいと思っている。
もちろん楽しくて幸せということは日常にたくさんあるし、父のことを思い出さない日もそりゃあたくさんある。
けど思いだすとやっぱり悲しく涙が出る。
けどそれでいい。
当然の感情を無理やり盛り上げたり、変えたりするほうがよほど疲れるし、自分を偽っているように思うからだ。
思うままに、感じるままに・・・
その時々の感情や思いをそのまま受け入れるようにしている。
ただ一つ、せっかく父からもらった命を、父から受け継いだものを、父の名に恥じないように生きようとだけは思っている。
とは言ってもネガティブな感情や自分の弱さから人を傷つけたり、悲しませたり、時にはイライラしたり八つ当たりしたり、父のようにはなかなか生きられない。
けどお手本となる人がいるというのは自分の中にもう一つ良心を持っているような感覚で、何かを決定するとき、迷った時、どっちを取るべきか悩んだときは大いに助けになってくれる。
父ならどうするか、父の名に恥じないように生きるには何をどう選ぶべきか・・・
私が死んで天国に行った時に胸を張って父にまた会えるようにしたいという・・・(他人に話すのはキザなようで文章に書くことでも恥ずかしいのだが)そんな気持ちがある。
第二回にわたり父との思い出を書かせていただきました。
最後まで読んでいただきありがとうございました!!