大学時代②入学40名→卒業6名
ブログ生活27日目
今日は一昨日書いた「大学時代①」の続きを書いていこうと思います。
私が22歳の時から通い始めた大学はアメリカの教育方針を取り入れた学校で、入学はたやすいが卒業の出口は狭いというシステムだった。
実際に1年生の時は40名近くいたクラスも、卒業時には6名になっていた。
私は一応何とかこの6名には入れたが、結局国家試験には落ちたし、就職には結びつかなかったので、なんのこっちゃない。
それでも地獄のような実習と、これまた地獄のようなレポート生活をこなして「卒業した」ということだけは自分の自信に結びついた。
夜間の大学なので昼間は働いていた。
8時~17時まで仕事し、それから電車へ乗って大学へ向かい、18時半から授業が始まる。夕食は授業前に教室で食べている人が大半だった。
夜間というだけあり年齢層はバラバラである。
7割が20代の子、2割ほどが30代~40代、1割は50代くらいだったような気がする。
他のクラスでもっと年配の方も見たことがある。
私はそのころ、カウンセラーや精神保健福祉士の仕事をやってみたかった。
それに至るには父親の死が大きく関係しているのだが、とにかく心を癒す仕事に興味を持っていた。
今考えると本当は自分にその必要があったのだろう。
あくまで私個人の考えだが、福祉をやる人は傷ついている人や、過去に誰かを喪失したり、何かをなくした経験をした人が多いように思う。
つまり誰かを癒すことで自分が救われているのだ。
誰かにしてやれなかったこと、できなかったことを他の人にすることで罪の意識や自己嫌悪から少しでも逃れられる。
もちろん福祉関係のすべての人がそういうわけじゃない。
しかし学校で出会った人も、実習先の精神保健福祉士の人もそう言う人が多かったので、なんとなくそんな気がしていた。
そして私自身も、病気の時に父にしてやれなかったこと、もっとこうしてあげればよかったと後悔にさいなまれていたので、精神保健福祉士を目指すことで罪の意識から逃れようとしていたのだと今は思う。
入学して一番初めにお友達になった子は3カ月でやめてしまった。
理由はレポートの多さである。
「わたしはレポートを書くために大学に来たんじゃないから…」
と言っていたのをよく覚えている。
1年を4学期制に区切られ、学期が終わるたびにレポートを提出することがこの大学の決まりだった。
9教科の科目のレポートを、学期ごとに提出するのは容易ではなかった。
1学期は約3か月間ある。
その学期の終わりまでに、習ったことの内容をレポート用紙6枚から8枚ほどにまとめる。
それが9教科分。
そして学期の終わりの土日には9教科分の試験がある。
その試験というのもレポートなのである。
試験前になると1教科につき5つの題名が発表される。
①〇〇について
②〇〇における〇〇の形成について
③〇〇の特性について
④〇〇の行動における3つの要因について
⑤〇〇に環境的要因の〇〇
というような感じだ。
あらかじめ何が出るのか知らせれるのだが、試験に出るのはこのうちの1つなのだ。
つまり、5つの題名すべての内容を勉強していけば満点は取れるだろうが、なんせ9教科分、45個の課題があるということなので全部は覚えてなんていられない。
大抵はヤマをはったり、キーワードだけ大まかに覚えるなどしていた。
9教科分のレポートが提出したと思ったら、今度は試験。
レポート、試験、レポート、試験、レポート……………
ましてみんな昼間は普通に働いているのだからとにかく時間がなかった。
そんなこんなで一人減り、また一人減りしているうちに4年生になったころは6人になっていた。
私のいた精神保健福祉士コースだけではない。
最終的には社会福祉士コースは8人ほど、保育士コースは3,4人だった気がする。
その代わり残った私たちにはそれぞれのコースを飛び越えて強い絆が生まれていた。
試験のたびにみんなで情報やヤマを共有し、このメンバーだけは卒業しようと誓い合った。
卒業して8年もたつが、私はいまだに大学時代の夢を見てうなされる。
レポートが間に合わないとか、単位は足りているかとか、あと何回休んだらアウトとか、試験に行けないで焦るといった夢ばかりである。
朝起きて、「あ、もう大学行ってないんだった」とホッとするのである。
憂鬱な月曜日にこんな苦しい話を書いてごめんなさい!
今日はここまで、続きは次回にします。
読んでくれてありがとうございます☆