あなたが転んでしまったことに関心はない。そこから立ち上がることに関心があるのだ。
ブログ生活47日目
誰か一人が悪いということがあるのだろうか?
物事は色んなことが重なったり、絡み合ったり、関係したりして発生するのに、起こった事象に対して最終的にボタンを押した人だけが悪いとなる仕組みに、理不尽さ無情さを感じる時がある。
私はドラクエやFFが大好きなのだが、あれらは典型的な悪と正義の世界だ。
人々を苦しめる悪を正義が退治する。
けどその悪にもそうならざる終えない過去があったり、非常に悲しいエピソードや生い立ちがあったりする。
だからと言って悪になって何をしてもいいのかとなると、もちろんそうではない。
誰かを傷つけたり、苦しめたり、自分がされてきたことを相手にしていいとは1ミリも思わない。
悪事の内容によっては、どんな過去があろうとも決して許されないと憤りを感じることは大いにある。
しかし1人だけが矢面に立たされたり、批判を受けたり、中傷されるのを目の当たりにすると、本当にその一人だけのせいなのか?となんとも言えない気持ちになってしまう。
大勢の少しづつが積み重なった結果…というところがほとんどなのではないだろうか?
世間というものは怖い。
大勢というのは怖い。
集団心理というのは怖い。
1人1人の考えや人格は高潔でも、集団になると人間はとたんに卑劣になる。
1人1人の考えは深く尊厳があっても、集団になると浅く、ものごとは単純明確化される。
そこに配慮や気遣い思いやりといったものはなく、右か左か、白か黒か、真か偽かといった二者択一の思考になる。
その選択が間違ったものだとしても、集団の中で罪の意識というものは鎧と鉄壁の守りに囲まれて針の入る隙間もなくなってしまう。
だから怖いのだ。
「そこまでしなきゃいけないこと?」
「どうしてそこまで・・・」
「そんなにみんな間違いも失敗もしたことのない完璧な人間なの?」
正義が度を越しているように感じる時がある。
正論が鋭利なナイフのように思える時がある。
そう・・・「正論は人を傷つける」のだ。
正しいことってそんな偉いの?
間違わないってそんなに立派なことなの?と思わずにはいられない。
みんな幸せになりたくて、自分の居場所見つけたくて、必要とされたくて。
でも人間だから間違うし、失敗するし、たまにはバカやったりもする。
思わず口が滑ってしまうこともあるし、筋が通ってないことを言ったりやったりもしてしまう。
真っすぐクリーンに揺るぎなく生きられたらいいけど、そうもいかない。
イライラしたり、つい言いすぎちゃったり、優しくできないこともある。
でもそれは当たり前。
それが人間だから。
人間は間違うし、時にズルをする生き物。
楽できりゃ楽したいと思う生き物。
だけど人間は立ち上がれる生き物。
やり直せる生き物。
間違いから学べる生き物。
そこに人間の高潔さがあると思う。
アメリカの16代大統領エイブラハムリンカーンが残した言葉にこんな名言がある。
「あなたが転んでしまったことに関心はない。そこから立ち上がることに関心があるのだ」
転んで当たり前。
誤って当たり前。
イライラして、毒吐いたって当然。
相田みつをさんの言う通り。
「人間だもの」
すべての芽を根っこから引き抜いたらそこにはもう何も生えてこない。
そんな草木も生えない世界なんて悲しい。
いろんな色の花、いろんな形の花、いろんな香りの花。
みんな嬉しそうで、楽しそうで、幸せそう。
そんなカラフルな花畑の世界をいつか。